本を読むという作業
寒い日が続きますね。
こんばんは、アタシです。
今日は、学生時代の先輩で、今ではよき相談相手のパイセンとランチに行ってきました。
そのあと、本屋さんに立ち寄って、面白そうな本ないかなぁーと探し歩いていて、ある一冊の本を手に取りました。
自己啓発本とかビジネス本とか、いつも見に行くコーナーではなく、ほんとにふらふら~っと歩いていて、表紙に猫の写真が載っていたので、“あ、かわいい”と思って選んだのが、たまたまその本。
今日のブログは、その本の内容について触れるのではなく、“本を読む”という行為についてふと思ったことを取り上げます。
その本には、猫の特性とか猫と暮らすことの良さとか、そういうことが書かれてありました。(※全部読んだわけではありません)
で、アタシは今猫を飼っていて(この猫がまたかわゆくてかわゆくて)、その本を読んでて
“あーたしかに”
“あーわかる”
“あーそうやなー”
と納得の連続。
で、ふむふむと内心うなずきながら本を読み進めていると、
“あれ?”
“あれれ?”
“あれれれれれれ?”
“…飽きてきた”
と思っているアタシに気が付きました。
そして、その本を閉じて、平積みされていた場所にそっと戻しました。
なんで、自分の家族同然の猫の話なのに飽きちゃったんだろう。
三日坊主ならぬ三分坊主にでもなったか?
なんて思いましたけど、どうやらそれだけではなさそうなのです。
最初はかわいいと思って手に取った本ですが、その本の冒頭部分で
“今猫と暮らしていない人はもちろん、すでに猫と生活している人にとっても、さらに一層猫と暮らすことの良さが見えてきます”
的なことが書かれてあって、そんな序章を読んだアタシはすっかりその気になり、
“新しい発見があるのか!それはぜひ知りたい!”
という気持ちになっていたのです。
ところが、本を読み進めても、書いてあることは、普段、猫がよく見せる行動であったり、すでに知っていることばっかりで、これといって新しい発見があったわけでもない。
たしかに、毎日の生活のなかで、その本に書かれてあったようなことを意識しているか、と言われればそうでもないし、改めて活字で読むことで“たしかにな!”と振り替えって納得することは多かった。
けど、そこに新しい発見がなかったから、アタシはだんだん飽きてきちゃって、その本を購入して続きを読みたい、とはならず、途中から流し読みになり、果てには本を平積みに戻してしまったのだ。
だって、本の冒頭に“さらに良さが見えてくる”って書いてたから、それを期待しちゃうし…
まぁ、最後まで読んでいないから、アタシが読んでいないところに、アタシの知らないことがたくさんつまっているのかもしれないけど。
でも、この“すでに知ってることを改めて認識する”っていう作業って、大事なことなんじゃないか、っとも思いました。
ふだん、当たり前すぎて全然意識していないことや、意識していない気持ち、そういうのってたくさんあると思ってて、それを振り替えって文字に起こすっていう作業は、とても大切なことなんじゃないか、っていう風に思いました。
そのいい例が、ブログ。
このブログを始めてから、今日何書こうかなぁ、とか、あのときアタシってどんな風に思ったのかなぁとか、意識しないとそのまま通りすぎちゃう時間を、敢えて自分で止めて、巻き戻して、再生して思い出す。
その一手間を加えるときに、
あ、アタシってそんな風に思ってたのか
って気付くこともある。
本を読むっていう作業にも、いろんな顔があって
・知らないことを知る
・知っていることを改めて認識する
・フィクション
・ノンフィクション
etc.....
今日のアタシは、知らないことを知るパターンを期待したけど、結果的には知っていることを改めて認識するパターンの方になっちゃってて、こちらの希望に沿わなかったから、立ち読みはその場で終了たわけで。
でも、その行動の中から、敢えて文字に起こす、敢えて文章にする、っていう行為の大切さを気付けたなというのが、アタシの感想です。
※その本はヒットしている人気作品ですし、本の内容について批判する気持ちはミジンコほどもございませんので、誤解なきようにっ!
そういう意味でも、ブログを書くっていうのは意味があるな、と思いました。
読む専門というそこのアナタ、
読むのと書くのは、全然違う労力が必要です。
一度、ブログ始めてみてください。
自分とのいい対話の時間になりますよ。
なにか新しいことを始めたい、と思っている人がいたら、今のアタシならブログ始めたら?って答えるだろうな。
と、なんともとりとめのないというか、今のアタシの気持ちをうまくまとめきれてない感じになりましたが、そんな感じで晩ごはんにしようかと思います。
また明日!